あれから9年もたつのか。僕はあの日、まさに世界貿易センターの地下鉄駅に8時40分頃到着して、2、3ブロックしか離れてない場所を歩いてた。最初の衝突を真後ろに聞いて振り返ったら、空一面に紙ふぶきが舞って黒煙がもくもくと出ていた。ウォール街にそびえる高層ビル群に、衝突音がこだまして大きく反響したのが、まだ耳の奥に残ってる。
燃え上がる世界貿易センター、それを見上げる黒山の人だかり。ボーリンググリーン駅を通過する地下鉄はまだ走っていたので、2機目が衝突してから15分後くらいには地下鉄に乗ってミッドタウンに避難してた。そこは騒然としたダウンタウンのことなんてまだ誰も知らなくて、スターバックスでコーヒーをいつも通り飲んでる人たちや、普通に通勤してる人たちの日常風景。ただ、一つ違ったことは、黒づくめの制服を着てジャーマンシェパードを操る軍関係の人がUPSの配送者を止めて荷物を探知していたこと。1機目の衝突から約40分後に、既にレスポンスチームは行動を開始していたみたい。
9・11の当日は、あまりに非現実で、具体的な情報もないままインターネットも接続が途切れ、携帯電話も2機目の衝突とほぼ同時に使えなくなっていた。情報のないまま、僕は家でテレビに釘付けになってた。
でも、当日の騒乱もさることながら、その後、6ヶ月以上、ニューヨークは全体が喪に服したように暗くなった。まず観光客が姿を消し、そしてチェルシーのバーも人がまばら。数ヶ月たって少し人出は回復したけど、みんな静かで大きな笑い声なんて聞こえない。ちょうど季節が秋から冬へと替わるように、人々の気持ちもより一層薄暗く、陰鬱になっていった。人は家に閉じこもり、ニューヨークは冬眠しているように思えた。
今まで生きてきた中で、初めて戦場になった場所での生活。東京大空襲に遭った人たちや原爆の被害に遭った広島・長崎の人たちはこんな程度ではなかったと思うけど、テレビでリアルタイムにビルから飛び降りる人たちが映し出されるというメディア社会の戦争を体験したことは、僕の体内時計をリセットしてしまった。9・11以前の自分と、それ以降の自分。世界はもう取戻しがつかない方向へと突入してしまったんだ。そして、皮肉にも、初めて僕がニューヨーカーとして地元住人と一体感を得ることができたのもこの日から。
一生、アメリカ人にはならないし、なりたいとも思わないけど、世界貿易センタービルへの1機目の衝突を200メートルほどしか離れていない場所で目撃し、その後の喪に服したニューヨークで生活したことで、僕はアメリカの重要な記憶の一部になったし、アメリカもまた僕の記憶の重要な一部になった。
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